一年後、十年後にこの家はどんなふうに耕されているのか?そんな吉村家を中間報告する。
インテリア、家具、ロゴなどのデザイナーである施主は、京都の中心部での職住近接の生活から、田舎暮しを始めるにあたって「何かおもしろい家にしたい」と自ら考えはじめた。囲炉裏のある生活、薪で焚く風呂に入る、家庭菜園で自給自足・・・。
でも「おもしろい」って何? 丸い屋根や三角窓といった「形のおもしろさ」ではない何か。そこで施主自らが仕事として数多く手掛けている「シンプルな構成の中に何か楽しいアイデアを盛り込んだ家具」。そんな「何か」が「おもしろい家」を追求することになった。
敷地は滋賀県西部、高島郡の人里から山へ少し入ったところ。別荘地として区画、分譲はされているもののそれを感じさせない程の雑木林の中の一画地だった。南側道路から北側へ向ってゆるやかな勾配がついた北斜面で、電気もガスも水道も前面道路には無いというこんなところで本当に田舎暮しを始めるのだろうかと他人事とはいえ少し心配になるような敷地であった。
当時少し相談にのっていた僕は、施主の敷地内に家庭菜園を設けたいという要求から、狭い土地で一年中様々な旬の野菜の収穫を楽しむには・・・と園芸関係の本を読みあさっていた。そこには野菜カレンダーなるものがあり、菜園の一年をデザインするという言葉があった。
夏野菜を収穫した後にはその土を少し休ませ、秋冬ものを植え…、というように限られた場所を有効に使うアイデア等がつまっていた。そこでふと、僕がよく提案していた可変性のある住宅の考えを組み合わせられないだろうかと思いつき、それからどんどんカレンダーにのめり込んでいった。
まず敷地全体にフレームを設定し各フレームに季節に応じた様々な作物を植えて収穫を楽しむ、そして同様に他のフレームを内と外に建具で間仕切ったり、屋根を移動させる等といった行為、装置でその季節がもっとも気持良く感じられるような場をつくりだす、そんな建築を挿入するというアイデアを施主の「おもしろい家にしたい」という要求に対し、とあるコンペに出すという形で提案した。コンペそのものは見事に落選、しかし施主は「本当にそのアイデアで家を作ってみようか」と正式に僕に設計を依頼した。
一度思い付いたアイデアはとことん使うという方針で2、3のコンペに基本設計と平行して少しずつ改良を加えながら応募した。その度にに施主に相談しアイデアのおもしろさと改良点、現実的かどうかを煮詰めていった。
その中でも作品タイトルまで考えてもらった「SDレヴュー」(鹿島出版会)では入選をはたした。出展作品を製作するにあたっては、どうすれば今週の住宅の特徴を一番分かりやすく、しかも楽しく伝えられるか、そのプレゼン方法について、ほとんど毎日のように相談した。それまでは設計内容が図面だけでは伝わりにくい感じであったが、この方法によって設計主旨やその家の将来像について施主と充分に共有することになり、実施設計などで行づまってしまった時にも戻る場所ができた。またたくさんの人から展覧会を通じてこの住宅についていろいろな意見を出してもらうことにもなった。
photo:岩為
施主も僕も、住宅に高いお金を使うくらいなら、生活を楽しむ事にその分をまわすという考え方なので今回の住宅も必然的にローコストで、ということになった。
本来なら工務店との工事金額調整は図面上で仕様、数量などを変更し減額案を何度か作り進めていく方法だが、今回の場合は合計金額を工務店に提示しどこまでの範囲の工事をやってもらえるかという感じで進めていった。木工事の間仕切り壁をできるだけ無くし、建具や家具で間仕切るようにし、それに自ら既存のものに手を加えていく、さらに2Fの床や果てしなく広がっていく外部のデッキなどは住みながら作り続けるという計画にした。しかしそれらのことはローコスト化の為というより、むしろ施主の「人間も動物なら、家というものは自分で作るべきもの」という考えにある。
photo:岩為
自分の住む家がどのような材料でどのような方法で作られているのかを知り、セルフビルドを体験することで、職人の技術に対する正しい評価や流通も含めた材料の適正な値段への理解にもつながった。
しかし何にも増してものづくりを仕事とする施主にとって生活を楽しむことの一つに家づくりがあるように思われた。またその姿勢に共感した学生などいろいろな人をまきこんで工事はまだまだ続いていく。
photo:岩為
借家を転々とする生活の僕達引越家族も施主の田舎暮しの生活観に共感し、今回の敷地の一部に自分達の夏の家(借家生活番外編)を勝手に計画したが「自分達で作るなら引越してきていいよ」とまさに生活を楽しむ施主ならではの反応が返ってきた。そうなればセルフビルドの手伝いにもますます力が入ってしまう…。
そんな自分の生活と仕事の境界もあまりはっきりしないような僕の、どのプロジェクトのどういう段階をとっても中間報告になってしまうような完成しない作り方は、まず施主や関わる人達とプロジェクトの将来像を共有し、セルフビルドによってこれから先をゆだねてしまい、のちの変化・成長を施主、叉は僕自身までもが見守り、楽しむことに通じている。完成のみえない、完成のない固定化されない建築が、家族や、そこでの生活と共にセルフビルドされていく。
それは自分自身の仕事に対する取り組み方にもいえるのかもしれない。もともと本来の「建築」というものにあまり関心がないともいえる僕は、建築の枠組みの中だけの価値観に囚われることなく、より広く、誰とでも共有できる楽しさを大事にしたいと思っている。ならば具体的にはどうすればいいのか、僕に求められているものがあるなら、それは何なのか?それを悩み、考え続けている。いますぐに答えがでないかもしれないが、既成の職業の枠にとらわれず、楽しみながら仕事の領域をセルフビルドして広げていきたい。